旦那の旦那による旦那のためのブログ

新米旦那が綴る日々思うこと

人の死と向き合った話

ばあちゃんの死

3日前、ばあちゃんが死んだ。87歳だった。突然の死ではない。元々体が弱く病気がちだった。数年前からは寝たきりで、体力もほぼなくなっていた。最近は入退院を繰り返し、いつ逝ってもおかしくない状態だった。ここ数週間は食べることもできず、点滴のみ。針とチューブによってかろうじて生命をこの世に繋ぎ止めている。そんな状態だったらしい。

だから家族はばあちゃんの死を自然と受け入れる事が出来ている。

私は実家を出ているため、夜 訃報を受けて一昨日急遽帰省した。お盆に帰省する予定だったが、一週間早まった。

痩せこけた顔

昼過ぎ、茹だるような暑さの中、実家に到着した。玄関を入ると漂う線香の香りに気がつく。いつもの実家とは違った雰囲気を感じた。自分の部屋に荷物を置いて、数珠を手に取り、呼吸を整える。ばあちゃんを安置している仏間に向かう。仏間の障子をゆっくりと開ける。

仏間の奥、仏壇の前に敷かれた布団。布団の上には仏教的な柄の刺繍が施された朱色の飾り布がかけられている。布団から顔を出した白く痩せこけた小さな顔。ばあちゃんだ。

ーーー最後に会ったのはGW。既にやせ細り、骨と皮だけとなったその身体はかろうじて腕を動かせる程度だ。声もほぼ出ない。しかし、頭はハッキリしているようだ。顔を見せると目を見開いて喜んだ表情になる。手を握るとシッカリと握り返してくる。筋肉などほぼ見当たらない腕からは想像できないくらい強い力で引っ張られる。そこには確かに生命があった。数分の面会の後、またお盆に来るねと約束をした。うんうん、首を縦に振ったように見えた。それがばあちゃんとの最後の会話だった。ーーー

仏間に入ってばあちゃんの枕元に座る。最後に会ったときより更に痩せた顔。骨格がわかるほど頬はこけて、目は落ち込んでしまっている。薄い皮を纏った骨である。ただ、その表情は穏やかで眠るように安らかに逝ったのがわかるような気がする。

遺体の前に置かれた焼香台の前に座る。作法はよく分からないが、2回だったような気がした。2度抹香を香炉にくべる。立ち上る煙。数珠を手にかけ、合掌する。

私はあまりばあちゃんを好きではなかった

ーーーこんな話をするのは不謹慎かも知れないが、正直わたしはあまりばあちゃんを好きでは無かった。私が物心ついた頃から体が弱かったばあちゃんは、いつもじいちゃんや実娘の母に苦労をかけてきた。体が弱い事を理由にワガママを言いたい放題だった。「幼い私にはそう見えた。」と擁護したい気持ちはあるが、擁護できないほどのワガママっぷりだった。

体は弱いが頭はハッキリしているので口ばかりが立つ。それに毎日付き合うじいちゃんや母からは、笑顔の節々にどことなく苛立ちを隠しきれない様子だった。基本的には仲の良い家族。しかし、うっすら漂うピリピリとした空気感。幼い私には苦痛だった。

だから、ばあちゃんがいる実家が嫌だったと言うことが、私が実家を出た理由の一つであることは正直に告白しておく。要するに私は逃げたのだ。長男である私が、ばあちゃんや家族に向き合うことができずに逃げてしまった。今思うのは申し訳ない気持ち。それが実家においてきた心残りである。

長年の闘病生活で入退院を繰り返してきたばあちゃんは、2年前くらいからいよいよ体力もなくなってきた。会うたびに体は痩せていく。まともに声も出ないので、以前のようなワガママを言う元気もなくなった。同居する家族が抱える介護の負担は重いが、一方でワガママを負担する必要はなくなった。

ここ一年は生まれたばかりの赤子の相手をしている様な感覚。例えとして正しいかは分からないがそんなイメージ。たまに言うワガママも可愛いレベルらしい。あとは死を待つのみ…。終わりが見える介護。そんな様子になったからか最近実家に帰ると昔の様な嫌な空気は感じられなくなっていた。私は正直少し安堵していた。ーーー

冷たいおでこ

お参りを済ませ、家族のいる居間へ戻る。叔父や叔母が集まり、通夜や葬儀の段取りについて相談をしている。基本的に葬儀屋の案内に沿って段取りを決めて行けばいいらしいが、大変な事に違いない。遺族は悲しんでいる暇はない。私はと言うと、葬儀の段取りに入ることも出来ず、特にやる事もないので家の中をウロウロしたり、姪っ子と遊んだり。そして、ばあちゃんを亡くしたばかりのじいちゃんの話し相手をしていた。

そうこうしているうちに仮通夜の時間となる。お坊さんが来てお経をあげる。仮通夜のお経は簡易的なものらしい。10分程度でお経を上げ終わると、お坊さんに説法をいただく。

「お孫さんか?」突然、私と弟に向かって問いかけられる。そうですと答えると、「こっちへ」とばあちゃんの枕元に座るよう導かれる。「亡くなってからばあちゃんに触ったか?」と聞くので、「触っていない」と答える。

こう聞かれたとき、「何で触っていないんだろう」と違和感を感じた。今まで、お見舞いした時はばあちゃんの手を握って話しかけていた。何ら特別なことでは無い。至って自然に。
そんな自然なことが、亡くなったばあちゃんに対しては出来なくなっていた。遺体に対して嫌悪など微塵も感じていない。自分のばあちゃんには変わりないのだから。ただ、どことなく「遺体に触ってはいけない」そんな思い込みがあった。

「それならばあちゃんの額に手を当ててみて」とお坊さんが言う。ばあちゃんの額にそっと手をあてる。冷たい、ひんやりしている。凄く静かな冷たさ。口にはしなかったがそう感じた。それはそうだ。遺体の痛みを遅らせるために、布団の中、全身を囲うようにドライアイスを仕込み、冷やしてある。冷たいのは当然だ。

続いて弟もばあちゃんの額に手を当てた。2人がばあちゃんを触り終わると「どう感じた?」とお坊さんに聞かれる。私は回答に困った。「冷たい」以外に感想が出てこなかった。ドライアイスで冷やしてあるので、当然だ。回答としてはありきたりすぎる。そんな事が頭を巡って答えられなかった。弟に顔を向けて助けを求めた。「冷たい…」弟はそう答えた。素直なやつだ。あまりに素直すぎる回答。しかし、答えてしまったので仕方ない。お坊さんの出方を伺うしかない。

お坊さんが口を開く。

「冷たいやろ?それが死ぬって事や。」

私はハッとした。表情や声には出さなかったが、かなりの衝撃をうけた。生きている人間は暖かい。最も基本的な事が頭から抜け落ちていた。ドライアイスがどうこうなんて話ではない。目の前のばあちゃんは生きていない。だから冷たいのだ。

私は普段の生活で、如何に生や死を感じていないか。それを痛感させられた。そして今、死と向き合っていることを深く実感した。

お坊さん自身、初めて遺体に触ったのは30過ぎてかららしい。死はこんなにも冷たいものである。当たり前だが最も死と向き合う方法。そう感じてからは、こうして遺族に遺体を触らせ、死を感じてもらうようにしているらしい。

ばあちゃんは最後にその身をもって生と死の違いを私に教えてくれた。その冷たい身体で、死を伝えてくれた。自分の額に手を当てた。これが生きている暖かさだということを改めて感じた。

家族に見送られることの幸せ

昨晩、通夜をが終わり、今日葬儀が終わった。たくさんの人が参列してくれた。涙を流してくれた。
葬儀のあと、ばあちゃんは火葬され、骨になった。骨になったばあちゃんは壷に入れられて、お寺にお墓に納められた。立派な葬儀だった。
人間の死は様々な形があると思うが、最後まで家族に見送られたばあちゃんは幸せ者だったと思う。


私は、ばあちゃんにありがとうの思いを込めて、ゆっくりと深く合掌をした。